校章
【1】下館商業学校の校章(左),一橋大学の校章(右)

 大正12年の開校と同時に校章が制定されたが,もちろん松崎校長がデザインしたものであった。
 それは松崎校長の母校,東京高等商業学校(現,一橋大学)の校章に用いられ,かつ,各地の商業学校の徽章のデザインに用いられている「ヘルメスの杖」に下館商業学校(Shimodate Commercial School)の頭文字SとCを組み入れたものであった。


【2】下館工業学校の校章

 本校に下館工業学校が新設されることになった昭和19年,下館工業学校開設の準備が水戸工業学校内で,同校の木滝勇教諭を中心に勧められた。
 木滝教諭は下館工業学校の校章の案を同校の酒泉博教諭に示し,図案化を依頼した。それで酒泉教諭が示された案をもとに,茨城県立下館工業学校校章を作成した。
 校章のデザインに関してであるが,上部の山型は,下館工業学校は電気科と電気通信科という電気関係の工業学校なので電気に関係する稲妻を表すものとし,中央部には下館の「館」の字を入れ,それを下館の「館(タテ)」の音が「楯」に通ずるところから「楯」の型で囲み,下部は工業の「工」の字を型どるように工夫したという。なお,この校章は白地に緑色の刺繍をしたものである。
 木滝教諭は下館工業学校開設と同時に本校教諭となるが,実際には応召され,工業学校開設の昭和19年には赴任できず,後,赴任したという。酒泉教諭は水戸工業の教諭であり,本校には一度も就任したことはなかった。


【3】茨城県立下館中学校の校章

 昭和21年4月に,本校は茨城県立下館中学校となるので,新しい校章を作る必要が生じ,新校章製作は,商業美術を担当していた渡辺力教諭と図画と体操を担当していた来栖教諭の二人にまかされた。
 体操教師としてオリンピック出場を夢みていた来栖教諭は,オリンピックの五輪旗をもとに,五つの輪の組み合わせのデザインを考案し,敗戦のなかから再び「五大陸(すなわち世界)へはばたく」という希望をたくすという意味を持たせよう(最初の校歌の第4節の歌詞の最後は「遠く翔らん五大州:とほくかけらんごだいしゅう」とある)とするのに対し,渡辺教諭は世界を表象するならば,五大陸を表す五輪の輪よりも,海洋国家日本にふさわしく七つの海(南太平洋・北太平洋・南大西洋・北大西洋・南氷洋・北氷洋・インド洋の称で世界を意味する)を表す七つの輪が良いのではと言いだし,相談の結果,昔から使用されている七曜紋と同じ七つの輪に中学校の「中」の字をつけ加え,各輪の中心を「中」の字が通るようにした校章を作った。
 この校章が七曜紋をなしているのを見た岡田校長は,日頃から生徒が自己の進路を誤らないようにと念願していたので,指針となる北斗七星を形象化したものでもあることから校章として採択し,その意味付けをしたのが,現在言われている校章の由来である。
 すなわち『創立45周年記念』誌が「この七曜紋の由来は,人類は日月火水木金土の七つの要素の中で生活し発展してきたし,また将来の繁栄と幸福もこれの活用いかんにかかっている。更にわが国の学制も初めから七曜によって運営される。以上から片時も自己の使命を忘れず努力すべきことを表象したものという。」と述べているのがそれである。


【4】下館第一高等学校の校章(左),誤って使用されている校章(右)

 本校が新制高校になるとき「中」の文字を「高」に改め,新しい校章を作成したのが,柴英雄教諭であった。作成するとき最も苦労したのが「高」の字形であると言う。
 ただ,この校章の作図法及び原図はいつしか失われてしまったので,昭和47年1月11日に福永哲夫教諭が新しく校章原図を作成し,以後,これが本校における校章の正式な原図とされている。
 なお,いつの頃からかはわからないが,七つの輪のうち真中の輪が抜け落ちた六つの輪になった校章が使用されていることもあるが,六つの輪では七曜紋とはならないので誤りであり,今後は是正されてゆくだろう。

                  ― 下館一高史旧制中学校編より抜粋 ―


【補足1】ケーリューケイオン

 ヘルメス(Hermes)とはギリシャ神話にでてくるオリンポスの12柱の神々のうちで,一番に若く見える青年神(ローマの神々ではメルクリウス・・・英語でマーキュリー・・・とよばれている)。彼の身装は大体(古典時代以降は)つば広の帽子を被り,手には黄金づくりの伝令杖(Kerykeion:ケーリューケイオン)(ラテン語ではcaduceus:カードゥーケウスとよばれる)を執り,足には概ね羽根のはえた鞋を穿っている。
 ゼウスは彼を自分および神々の伝令使,お伝い神に任じたのであり,また,富と幸運・商売・盗み・賭博・競技の神であり,智者として竪琴・笛のほか天文・数・度量衡・文字の発明者とされた。
 このヘルメスがもつ杖とはケーリューケイオンといい,2匹のへびが巻きつき,先端に二つの翼がある黄金の杖である。この杖が平和・医術・商業の表象とされており日本で各地の商業学校の徽章に用いられている。

                  ― 下館一高史旧制中学校編より抜粋 ―

【補足2】七曜紋

 北斗七星を形象化した紋章で,北斗星紋ともいわれる。
 中国の天文では,日・月・火・水・木・金・土の七曜をさす。仏教では,それぞれ,日輪・月輪・光明照・増長・依怙衆・地蔵・金剛手の七菩薩をあて,これらの星の来臨を請い不老長寿と幸福をいのる。この修法を北斗尊星法といい,平安時代から鎌倉時代に行われた。そのために,北斗堂を設け本尊として妙見菩薩を祀った。紋のパターンは九曜紋と同じで,星の数が七個になっているだけである。
 七曜紋を用いたのは平氏良文の流れから出た長井・和田の二氏と平氏繁盛から出た芳沢・猪股氏などである。これらは,信仰上の使用であったが,紋がかんたんで明瞭で見わけやすいので使うというものもあった。

                         ―樋口清之『家紋』より―
校旗

 昭和2年3月卒業の第2回卒業生は,本校にはまだ校旗がなかったので,卒業記念として校旗を寄附することにし,金百五十七円八十七銭をもって校旗を作り,卒業記念品として寄附したのであった。この校旗の樹立式が,昭和3年2月11日の紀元節拝賀式当日,ぬかるみの富士之越校舎の校庭においておこなわれた。以来この校旗が使用されて来た。
 昭和34年8月8日より甲子園球場で開催された第41回全国高校野球選手権大会に本校が東関東代表として出場することになったとき,従来の校旗は,旧制度下の商業学校時代のものであり,かつ,だいぶ古くなってしまったので,甲子園出場記念に急きょ新しい校旗を作ることになり,下館市の小川ネーム店(屋号は「箔照」・店主は小川昭四郎)に同年7月末に注文して,できたのであった。しかし,甲子園では使用されなかった。
 費用は校旗そのものは三万五百円であるが,校旗を納める箱その他全部を含めて三万五千円となった。この費用を昭和33年度卒業生(第35回卒業生)の卒業記念品代より支出し,新校旗はその卒業記念品となったのである。
 因みに旧校旗は,創立60周年を機に補修を行った。現在,紫西会館に納めてある。